熊本地方裁判所八代支部 昭和30年(ワ)9号 判決 1955年10月15日
原告(反訴被告) 山田実
被告(反訴原告) 山内正行
主文
原告(反訴被告)の請求を棄却する。
被告(反訴原告)の反訴請求を棄却する。
訴訟費用は本訴反訴を通じ二分し、その一を原告(反訴被告)の、その余を被告(反訴原告)の負担とする。
事実
原告(反訴被告以下単に原告と称する。)訴訟代理人は本訴につき「被告(反訴原告以下単に被告と称する。)は原告に対し、水俣市袋字平田九百二十三番地、家屋番号袋第百八十八番一、木造瓦葺平屋建住家一棟建坪二十坪六合一、木造瓦葺平屋建物置一棟建坪八坪八合を明渡せ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を、反訴につき、「反訴請求を棄却する」との判決を求め、本訴の請求原因竝に反訴の答弁として、右建物は元来原告の所有であつたものであるが原告は訴外前島吉平が、昭和六年十月三十日原告の訴外坂本草駄に対する債務金二千三十六円十銭を金千六百五十円に減額して立替払をしてくれたので、原告所有の土地を他に売却して前島の立替払金を弁済することゝし、原告の印章を右前島に保管させ、且原告が右前島に対し別途負担していた債務金百五十円の債務のため原告所有の本件建物中木造瓦葺平屋建物置一棟建坪八坪八合を売渡担保となし、未登記なるため右前島において右物件の所有権保存登記手続をなすことを許容した。然るに、右前島は不法にも昭和六年十一月二日擅に本件建物全部及右建物敷地たる水俣市袋字平田九百二十三番宅地五十六坪を自己名義に保存登記をなした上本件建物を昭和十五年八月二十九日被告に譲渡してその所有権移転登記手続を了した。よつて原告は被告を相手方として、熊本地方裁判所に所有権移転登記等請求訴訟を提起したところ、右事件は同庁昭和十七年(ワ)第二四号事件として審理された結果、昭和十八年十月二日当事者間に本件建物に関し、次のとおり裁判上の和解が成立した。
(一) 被告は昭和二十八年十月一日より同年十二月末日迄に金千五百円を提供する時は宅地家屋を原告に売渡すこと、
(二) 原告の金員の支払は所有権移転登記書類を作成し、被告が交付すると同時になし、その費用は原告の負担とし、原告は被告に対し、右登記の日より六ケ月間は家屋を無償にて居住させること、
よつて、原告は被告に対し右和解契約による前記期間中に右代金千五百円を支払のため提供して受領を求めたが、被告がこれを拒絶したので、昭和二十八年十月十六日熊本地方法務局八代支局に右代金の弁済供託をなすと共に、前記和解調書の執行力ある正本に基き昭和二十八年十月二十日熊本地方法務局水俣出張所受附第二千八百九十八号を以て原告のため本件建物の所有権移転登記手続を受けて所有権を取得し、且同日被告に対し、右登記手続が終了した旨竝に、同日から満六ケ月以後本件建物を原告に明渡すべき旨の通知をなし右通知は同年十一月三日被告に到達した。しかるに、被告は右六ケ月の経過後も何等の権限なくして、不法に右建物を占有しているから、これが明渡を求めるため、本訴請求に及んだと陳述し、被告の主張事実を否認し、物価の変動乃至通貨価値の変動は予測し、又は予測し得べかりしものであるから被告の右事情変更の抗弁は排斥の外はない。即ち、通貨価値が下落し、物価の上昇するのは、経済史の示すところであり、若し被告の主張の如くんば、必ずしも戦前戦後に分別することなく、物価や通貨の変更に応じ、その都度債務の履行額に変動を来たすものと謂わねばならない。斯くては経済界は安定を缺き、経済秩序は破壊されるであろう。仮に戦前と戦後に一応分けるにしても、戦前に契約した郵便貯金、銀行預金生命保険等物価の上昇や通貨価値の下落に応じて、その金額も変動し、債権者は物価指数に即した請求ができるであろうか。滞納税金等も物価指数に即した金額を算出して払わねばならぬであろうか。物価や通貨価値の変動は固より予測し、又は予測し得べきものであり、況んや戦時中においては尚更の事であつて、日露戦役及第一次第二次大戦において日本国民の等しく体験したところであると述べた。<立証省略>
被告訴訟代理人は本訴につき「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を、反訴につき、「被告と原告間の熊本地方裁判所昭和十七年(ワ)第二四号所有権移転登記等請求事件につき、昭和十八年十月二日なした和解は無効とする。訴訟費用は原告の負担とする。」予備的に「原告は被告が本件建物を原告に引渡すと同時に、被告に対し、金二十五万円を支払うこと、訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、本訴の答弁竝に反訴の請求原因として、原告主張事実中昭和六年十一月二日訴外前島吉平が自己のため、本件建物の所有権保存登記をなしたこと、被告が昭和十五年八月二十九日訴外前島吉平から、本件建物を譲受け、その所有権移転登記を受けたこと、原告が熊本地方裁判所にその主張の訴訟を提起し、その主張のような裁判上の和解が成立したこと、原告が昭和二十八年十月十六日本件建物の代金として、熊本地方法務局八代支局に金千五百円の弁済供託をなしたこと、原告が右和解調書の執行力ある正本に基き、昭和二十八年十月二十日本件建物の所有権移転登記を受けたこと、被告が本件建物を占有していることは認めるが、その余の事実は否認する。
元来本件建物は被告が昭和十五年八月二十九日前記前島吉平から適法にその所有権の譲渡を受け、占有していたものであつて、右裁判上の和解の趣旨は、和解条項の示すとおり、昭和二十八年十月より十二月迄の間に原告が被告に対し、金千五百円を提供することによつて、売買を完結し得る売買の予約をなしたものである。そして本件建物の代金は前記和解成立時の社会、経済事情により金千五百円と定められ、売買完結時の昭和二十八年十月一日より十二月末日迄の間の事情は全然考えられていなかつたものである。しかるに、右和解成立後わが国は未曽有の敗戦に接し、右和解成立当時全然予見し得なかつた物価の上昇、貨幣価値の下落を示し、売買完結予定の昭和二十八年十月が到来した当時においては、本件建物の価格は金二十五万円を超過する結果となり、到底右和解契約による履行は不可能となつたものである。よつて被告は本件に関し、昭和二十八年八月三日八代簡易裁判所に調停申立をなし、原告に対し本件建物代金として金二十五万円の支払を求めたが、原告がこれに応じなかつたゝめ、右調停は不成立に終つたが、右調停に際し、被告は前記事情変更を理由として原告に対し、前記裁判上の和解の基本たる和解契約解除の意思表示をなした。仮に右意思表示が認められないとしても、被告は本訴において、同様の理由により前記和解契約解除の意思表示をする。されば、右和解契約は解除により失効し、原告は右和解契約によつて、何等所有権を取得するものではないから、原告の所有権に基く本件建物の明渡請求は失当であつて排斥せられるべきである。よつて、被告は反訴において、右和解契約が無効とする旨の判決(和解無効確認の判決の趣旨と解する。)を求め、予備的に、仮に被告に本件建物引渡の義務があるとしても、信義衡平の原則により、昭和十八年十月当時の代金千五百円は、当然現在の時価である金二十五万円を指すものというべきであるから、被告は原告に対し、右建物と引替えに、金二十五万円の支払を求めるものである。仮に、以上の主張が全て理由なしとしても、被告は他に住居を有しないものであつて、本訴明渡請求は権利の濫用であるから、被告に明渡の義務はないものであると述べた。<立証省略>
理由
原告主張事実中昭和六年十一月二日訴外前島吉平のため、本件建物の所有権保存登記がなされたこと、被告が昭和十五年八月二十九日訴外前島吉平から、本件建物を譲受け、その所有権移転登記を受けたこと、原告が熊本地方裁判所に、その主張の訴訟を提起し、昭和十八年十月二日同裁判所において本件建物に関し、次のような裁判上の和解が成立したこと、
(一) 被告は昭和二十八年十月一日より同年十二月末日迄に金千五百円を提供する時は宅地家屋を原告に売渡すこと、
(二) 原告の金員の支払は所有権移転登記書類を作成し、被告が交付すると同時になし、その費用は原告の負担とし、原告は被告に対し、右登記の日より六ケ月間は右家屋を無償にて居住させること、
原告が昭和二十八年十月十六日本件建物の代金として、熊本地方法務局八代支局に、金千五百円の弁済供託をなしたこと、原告が右和解調書の執行力ある正本に基き、昭和二十八年十月二十日本件建物の所有権移転登記を受けたこと、被告が本件建物を占有していることは当事者間に争がない。
しかるに、被告は原告の所有権を争うから、まず前提たる右和解条項の趣旨を検討するに、右和解条項に、証人山田真鋤、同溝口一雄、同淵上嘉市の各証言を綜合すると、右裁判上の和解において、原告は係争物件たる前記宅地及本件建物の所有権が被告に存することを容認し、被告は原告が十年後の昭和二十八年十月一日から同年十二月末日迄の期間中に右宅地及本件建物の代金千五百円を提供して売買完結の意思表示をしたときは、右宅地及本件建物の売渡をなすことを約したものと認められるから、右裁判上の和解の基本たる和解契約は原告に予約完結権を認めた売買の一方の予約であると認める。そして、証人溝口一雄の証言によれば、原告は前記期間中の昭和二十八年十月十四、五日頃右代金千五百円を持参してこれを被告に提供し、前記和解による売買完結の意思表示をなしたところ、被告が右代金を受領しなかつたことが認められる。次いで、原告が同月十六日熊本地方法務局八代支局に金千五百円の弁済供託をしたことは前記のとおり、当事者間に争がないから、本件建物の売買は原告の右売買完結の意思表示によつて成立し、原告に所有権が移転したものと、一応斯様に考えられるものである。
よつて、被告の事情変更による解除の主張について判断するに、前記和解契約の成立した昭和十八年十月当時と、十年後の売買完結時である昭和二十八年十月当時との間に、敗戦による社会的、経済的変動による著しい事情の変更があつたことは説明するまでもなく公知の事実であるが、本件建物の価格も、鑑定人槇寺一由の鑑定の結果によれば昭和十八年十月当時金千三百円であつたのが、昭和三十年一月当時においては金二十万円余(本件和解による売買完結時である昭和二十八年十月当時においても同様であると認める。)に騰貴していることが認められるのである。そして、昭和十八年十月頃は日本国民全体が今次大戦において必勝の信念を以て戦争遂行に邁進していたときであり、被告その他何人も、日本が戦争に敗れその結果社会的混乱状態やインフレーシヨンによる甚しい物価騰貴が生ずることについてはこれを予見せず、又これを予見することができなかつたことも公知の事実である。ところで、
事情の変更により、契約当事者に契約解除を認めるがためには、事情の変更が信義衡平上当事者を該契約によつて、拘束することが著しく不当と認められる場合であることを要するものであるところ、(最高裁判例集第八巻第二号、四四九頁昭和二十七年(オ)第七五一号同二九年二月十二日第二小法廷判決参照)本件において、右事情の変更は前記認定のように、当事者の予見せず、且予見し得なかつたところでありまた前記和解条項によれば、右事情の変更が被告の履行遅滞中に生じたものでないことも明かであるから、被告が前記和解契約により昭和二十八年十月当時においては既に約金二十万円に騰貴した本件建物を、十年前の前記和解契約成立時の評価額である代金千五百円にて売渡さざるを得ないことは、甚だしく権衡を失するものというべきであり、これにより、売主たる被告が予期しない不当な不利益を受ける反面において、買主たる原告が予期しない不当の利益を受けるものであることは、言うまでもないから、前記裁判上の和解により被告を拘束し、当初の代金千五百円を以て、売買の予約を完結するのは、信義衡平上著しく不当であると認める。そして、裁判上の和解は一面訴訟行為であると同時に他面私法上の法律行為たる性質を有するものであつて、事情変更の原則の適用は、右裁判上の和解にも適用があるものと解すべきであるから、被告は右和解の拘束を免れるため、前記事情の変更により一方的に解除権を行使し得るものというべきである。
そこで、成立に争のない乙第一、二号証によれば、被告が昭和二十八年八月三日原告を相手方として八代簡易裁判所に本件建物の代価として金二十五万円の支払を求める調停申立をなしたところ、原告がこれに応じないため不成立に終つたことが認められ、右調停に際し、被告が、原告に対し、事情変更による解除の意思表示をしたことを認めるべき証拠はないが、被告はその後本訴において、(昭和三十年四月八日口頭弁論期日)原告に対し、同一の理由により、前記裁判上の和解の基礎である前記和解契約を解除する意思表示をなし、右意思表示が被告に到達したことは記録に徴し明かであるから右意思表示の到達により、右和解契約は適法に解除せられ、当初から存在しないのと同一の効果を生じたものである。従つて、原告は右和解契約に基き、本件建物の所有権を取得することはなく、右所有権に基く本訴明渡の請求は既にその前提を欠くものというべきである。
次に、被告の反訴請求につき案ずるに、被告は右和解契約の解除により、右和解契約は失効したから、これが無効であることの確認を求めるというのであるが、前記和解契約解除の効果として、右和解契約の効力が存在しないものとなつたとしても、右裁判上の和解が当初有効に成立したものであることは当事者間に争がないから、右和解契約の効力が存在しないことの確認を求めるならとも角、右裁判上の和解が無効であることの確認を求める反訴請求はそれ自体理由がないものといわなければならない。次に被告は予備的に、本件建物の代価として金二十五万円の支払を求めるというのであるが既に前記解除権の行使により、前記和解契約は解除されたものであるから、右和解契約の存続していることを前提とする右予備的請求も成立の余地がないものといわなければならない。
しからば、本訴、反訴を通じ、その余の主張及争点については案ずるまでもなく、原告の本訴請求及被告の反訴請求は共に失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八十九条第九十二条を適用し主文のとおり判決する。
(裁判官 西辻孝吉)